穏やかな日常

1日の終わりに出没するアラサー

友達は死んでしまいたいと言った

 

 

友達に最近死にたいと考えてしまうと言われた。

 

その時私はその子から出た言葉の種類がふざけて軽く発したものではない気がした。

 

 

色々なことが不安で未来が見えず、このまま生きていく方が辛いと、自分が楽になるならそれでいいと。

 

 

すごく不思議だった

 

ふざけた言葉じゃないと分かると、ここまで私の思考は停止してしまうのか…

 

 

"死ぬなんて言わないで"

 

"生きていればいいことがある"

 

"みんなそうだから"

 

 

この全て言葉の重さが軽すぎて、口にもできない。私は言葉で彼女を救う…救うなんて素晴らしいことはできないんだと痛感した。寄り添うことも同調することさえも違う気がして。

 

 

 

 

傷ついて苦しんで、もがいたりどうすれば良いか分からない状況にモヤモヤそわそわしたり、自分の精神が脆くなってしまう時は生きていれば誰しもある

 

でもその状態から精神を保つ方法は人それぞれ。性格も違えば、性別、生活環境、考え方…

 

言ってしまえば全部違う

 

 

 

だから、自分と同じ方法でその人の気持ちが少し楽になるかなんて分からない

 

 

今私が考える、思考をまとめて残しておこうと思う(自分のためにも)

 

 

 

きっと他人から見たらなんでもないことが、彼女にとって一筋の光になるのかもしれない。そんな時が今すぐじゃない、いつかくるかもしれない

 

だから今は辛い何かから逃げても休んでも立ち止まって考えてもいい、何も考えなくてもいい

 

人間は年齢を重ねるごとに何か肩書きをもち、"これが私の素晴らしい人生なんだ!"と他人に見せびらかす決まりなんてない。素敵な趣味がなくても、パートナーがいなくても、結婚しなくても、将来子どもを産まなくても、家を建てなくても、仕事が順調じゃなくても、そこにいる状況が真っ暗闇でも

 

 

良い。

間違ってることなど何ひとつない。(道の外れたことは除いて)

 

 

そして、すごくキラキラした何か素晴らしいことをしていそうな人を見た時に感じる劣等感は感じることさえ無意味なのかもしれない

 

 

"SNSで見かけたあの人はすごく元気そうで幸せそうに見える"

 

 

でも私はこの人ではない。この人間と同じことをして同じ生活を手に入れても幸せじゃないかもしれない("別物の人間の幸せを得てその幸せを同じように理解するなんてできないはずだから")

 

 

 

だから私は私が好きなことをしていればいいのだ、そしていつか命が尽きればいい

 

 

好きな時間に起きて、寝て、好きなものを食べて、見て、収集して、好きな人と、もしくはペットと、1人でも、好きな時間を自分のために過ごす。

 

 

 

人生という暇つぶし。いつか死ぬまでただ待つより、いつか死ねる時まで自分の心の中の本当の"好き"や"幸せ"に耳を傾けていたい

 

 

 

 

あなたは1人だ、でも私も1人

 

 

 

結局死ぬ時1人はお揃いだから怖がらずにいてほしい

 

 

 

今は疲れ切った心を休めて、腐るように寝て、少しずつ気持ちが潤ってきたら温泉でも行って癒されよう

 

美味しいもの食べて、また休もう

 

 

 

(まだ死ぬには惜しいよ、友達。私はあなたとやりたいことが山ほどあるから)